母校と隣村紹介(その1)

隣村と接する小学校が本年度限りで閉校になります。中学校はすでに廃校となっ
てます。急激な過疎化によるものです。同時に高齢者と空家が多い地区になって
ます。
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半世紀前小学生であった頃は手前のプールなく、海が役目をしてました。恵まれ
た施設が廃墟として残るだけです。下の写真右上の体育館も同様です。昔は施設
はなくあるのは自然だけでした。それでも子供は育ちました。この校舎は伊勢湾
台風の後校舎全壊のために建てられたものです。私達は約二年間の放浪授業を受
けた後、6年生の一年間だけの利用でしたので母校とは言い難い感じがしますが・・・。
 
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         閉校記念行事として校庭に書かれた文字と校章
 
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小学校を右手に見つつ坂を下ると宿浦です。この通りはその昔波の打ち寄せる海岸でした。左前方上に見えるお寺でも授業を受けました。お寺以外では公民館、青年団会館、損壊をまぬかれた学校のトイレを改装した建屋など学期毎に移動して授業を受けました。宿浦の路地はこのときに覚えました。
 
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           海禅寺入口(階段)にある記念碑
 
この碑が建立されたのは昭和30年だと今回知りました。南朝時代に北畠氏に味方した愛洲一族の砦跡とか。
愛洲一族は水軍。宿浦含め私達の祖先は水軍(海賊)だろうとは私なりに思ってました。村の立地条件から見ると海から来て住み着いたとしか思えないからです。
その昔陸の孤島だったと。隣村である南張から浜島へ抜ける道は崖だらけの道。
もうひとつのルートである宿浦から五ヶ所浦に抜ける道は百数十か所のくねくね
と曲がる道。船が一番便利な交通手段でしたから。 伊勢市へ行くには巡航船で
五ヶ所に行きバスで剣峠を越えて行くのが唯一の手段の時代があったようです。
この道は今もありますが自動車一台がやっと通れるほどの狭い山道です。どこに
抜け出るかというと遷宮でかせわしい内宮の宇治橋のすぐ右手に出てきます。
私が幼少の頃、祖母の話に徒歩で剣峠を越え魚を運んで伊勢あたりに行商に行っ
たと聞いたことがあります。
この道はお伊勢参りが盛んになった時期からすでにあったらしくかなり古いようで熊野や和歌山から船で来て五ヶ所下船→剣峠越え→伊勢神宮の参拝ルートであったとのこと。
 
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                          海禅寺
授業を受けた昔の本堂ではなく新しくなったとのことです。 中学時代に課外授業で寺に至る階段で絵を描いて以来の訪問でした。
 
to be continued.